『クルックルクー!』
「おお、よくやったぞコロロ!」

不意に洞窟の外から聞こえてきた声。
ざくざくと雪を踏みしめる音に続いて。
吹き荒れる吹雪の中から、一人の影が現れた。

「ホロホロ!」

葉が安堵と驚きの表情を浮かべた。
が、すぐにその顔が曇る。

ホロホロに背負われる、その姿が視界に入って。

!」

急いで蓮も駆け寄る。
ぐったりとしているその頬に手を伸ばし―――ふと、ホロホロの視線に気付く。

(……?)

何か言いたそうなその目に、蓮は眉をひそめる。
だがそれを尋ねる前に、すぐにふいっと視線は逸らされた。

「―――の奴、熱が出てるみたいなんだ。だから早く火の近くに寝かせねえと」
「何!? わ、わかった」

葉が慌てて焚き火付近の地面に、自分の上着を脱いで敷いた。
竜やリゼルグもそれを手伝う。
そこへホロホロがを寝かせる。
蓮も自分のコートを脱ぎ、ホロホロが雪塗れの自分の上着をどけると、代わりにそれをかけた。

(……熱い…)

コートをかける際に、そっとその額に手を当ててみる。
確かに異常に高い温度を感じて、改めて自分の不甲斐なさに腹が立った。
どうして気付かなかったのか。
彼女がいなかったことだけではなく―――彼女の身体の不調までも。
自分は何も気付けなかった。

葉が濡らしたタオルをそっとの額に置いた。
その荒い呼吸に、誰もが心配そうに見守る。

「―――蓮」

不意にホロホロが声をかけてきた。
その低い声音に訝しげに見やると。
ひた、と此方を見据える厳しい目。
それでいて―――怒りを必死で抑えているような。

「こっち、来い。………ちょっと話がある」

ホロホロに誘われるまま、広い洞窟内の、少し離れたところへ連れて行かれる。

「……何だ」

薄々と何かを感じ取りながら、蓮は尋ねた。

「アイツは多分、お前に言わないで欲しいって思ってる。
 でも…悪いが言わせて貰う。そうじゃなきゃ、腹の虫が治まんねえ」












□■□












「まだ、治らないみたいだね」
そうやれやれと苦笑する彼。
私はと言えば、確かに昨日よりは大分楽になったとは言えまだ熱は下がっていない。
でも余り心配はかけたくなくて、必死に話題をそらそうと、そういえば外が随分と静かなようだけれど、と尋ねた。
すると、
「…ああ。実は昨日からね、雪が降っているんだよ。雪が降ると音は消えてしまう。だから静かなんだ」
雪、という単語を始めて聞いた私は、続けてその意味を尋ねた。
「雪というのは、真っ白な氷の細かい粒だよ。冬になっていよいよ冷え込むと、空から降って来るんだ」
発熱とは違って自分で経験したことではないから、言葉だけの説明にやはりまだよくわからないままの私を見て。
ふと何かを思いついたのか「少し、待っていて」と彼は寝所から出て行った。
ほどなくして。
「―――ほら。これが雪だよ」
そう言って差し出された彼の手には、真っ白な綿のようなものがふわふわと乗っていた。
「さわってごらん」
言われるままに、そっと手を伸ばしてみる。
ひやりと冷たかった。
でも見た目どおりにそれは、ふわふわ、さらさらとしていて。
けれど見る見るうちに、それは溶けてなくなってしまう。
彼の手には、仄かな水溜りだけが残った。
「あたたかいとね、すぐに溶けてしまうんだ」
彼が言うには、このふわふわな雪というものが一面に降り積もって、外は真っ白になっているらしい。
一面の銀世界。
彼はそう評した。
うずうずと好奇心が刺激される。
もっと触りたい。
もっとよく見たい。
そうねだる私に、彼はくすくすと笑いながら、
「なら、早く治そう。そうすれば飽きるほど見られるよ」
そっと彼の掌が額を撫でる。
雪の名残かそれはまだ冷たくて―――とても心地よかった。
「いつか一緒に見に行こう。
その感触を、今もまだ、覚えている。













□■□












ふと、は目を覚ました。
顔が燃えるように熱い。
ぼやける視界に、ごつごつとした天井が映った。

ここは――――どこ…?

どうしてだろう。
胸が苦しい。
熱のせいだけではない。

今の今まで見ていた、夢。
それはいつもと違って―――酷く鮮明な夢。
わたしがいて、もう一人誰かがいた。

優しくて、あたたかくて。
まるで包み込むように柔らかな気配。

ああ、知っている。
わたしはあの存在を知っている。

「…う……」

はゆっくりと身体を起こした。
周囲には誰もいない。
だが――

入口の方が、何やら騒がしい。
誰かがいる。

はふらふらと立ち上がると、壁づたいにゆっくりと歩き出した。

何かを求めるように。
誰かを求めるように。

苦しい。
苦しい。
荒い呼吸が繰り返される。
だけどそれ以上に――

どうしてこんなにも、悲しくなるんだろう?

あんなに優しい夢だったのに。
とても幸せそうな夢だったのに。

『――

ああ、彼の声が聞こえる。
これは夢の続きだろうか。
優しくてだけどほんの少しだけ、淋しげな声。

あれは  あれは





「葉王――――……」

















「あ、あれがハオ……凄い、凄いわ…!」

シャローナがうっとりとした顔で呟く。
その視線の先には、仲間を引き連れた未来王ハオの姿。
まるで彼らを恐れるように、吹雪が綺麗に彼を避けていく。

圧倒的な存在感。

最初にその気配を察知し、洞窟から出て行ったリゼルグを追いかけて、葉たちは全員外に出てきていた。
ハオの臣下の一人、ダマヤジが見下したように言う。

「フン、こんな所で足止めされるようでは、パッチ村にはたどり着けそうにないな」
「何?」

蓮のこめかみがぴくりと引き攣る。
ハオも、微かに笑いを滲ませて告げた。

「ここで引き返して、吹雪がやむのを待った方がいいと思うよ。君たちじゃ、これから僕がすることにとても耐えられないだろうからね」

その言葉に引っかかりを覚え、葉が怪訝そうに顔をしかめた。

「…何をするって?」

何だろう。
なんだか……とても不吉な予感がする。
ダマヤジがフフンと鼻で笑った。

「偉大なる自然を恐れぬ愚かなえせシャーマン達よ。ハオ様が大自然の力を持って――」

だがその台詞は、当のハオの手によって遮られた。

「―――良かった。来てくれたようだね」
「え…?」

ダマヤジの視線が、不思議そうにハオの目の先を追う。
それにつられて、葉たちもふと振り返った。





「―――っ……!」





蓮が驚きの声を上げる。
そう、そこにはいつの間に来たのか、ふらふらと壁を伝いながら洞窟から出てくるの姿があった。
心なしさっきよりも顔が赤い。
立っているのすらも、相当つらそうに見えた。

「馬鹿っ、どうしてここへ――」

慌てて蓮が近付こうとする。
だがそれより一瞬早く――
ふわりと誰かが横をすり抜けた。

「熱、出たのか」

思わず蓮の足がぴたりと止まった。
――――
身体を硬直させたまま凝視する。
己の見ている光景が、信じられなかった。

に寄り添うようにして近付く、ハオの姿に。

そっとグローブを嵌めた手が、の頬を撫でた。

「ああ、そうか。この時期になると、いつも君は臥せっていたからね」

それは、今まで目にしてきた彼のイメージからは、想像もつかないくらいの。

  やさしくて
  いとおしむような

大事なものを壊さないように、そっと、そっと、暖かく包むような、
声音。

蓮だけではなく、葉や竜達、果てはハオの臣下たちですらも――
彼の思いもかけない変わりように、目を丸くしていた。

ハオの顔は、此方からでは見えない。
ただその背中を――
微動だにせず、その場にいる全員が見つめていた。

「…は、お」

のか細い声が聞こえてくる。
ハオが「ん?」と首を傾げた。

「はお………そこに、いるの…?」

彼女の言葉に含まれる、その微妙な感情に。
ハオは気付いてふっと微笑んだ。

「大丈夫だよ。僕はいつだって、ここにいるから」
「……ほ、んと?」
「うん。本当」

「…ッ!」

誰かが息を呑む音が聞こえた。
視線が集中する中―――ハオがゆっくりと、の身体を抱きしめて。

の苦しそうな顔が、ハオの肩越しに覗いた。


「は、おっ……!」


彼女は、泣いていた。

ぼろぼろと、その瞳から止め処なく涙が零れ落ちていく。
込み上げる嗚咽を噛み殺して、彼女は泣いていた。

「……ありがとう」

ハオの掌が、の頭を撫でる。
誰にも聞こえないような、小さな小さな声で。
そっと呟く。

「思い出してくれたんだね」

ぎゅ、と。
それに応えるようにして、がハオのマントの裾を握った。
声に出来ない思いを、その手に込めるように。
小刻みに揺れる、その肩。

「…うん。うん」

ハオが頷いた。
の頭を撫でながら。

「まだ一部しか記憶が戻っていないんだね」

小さな子をあやすように。
そっと、そっと。

「僕は大丈夫だから。待ってるから。―――だから、泣かないで」

「……っ…」

が大きく目を見開く。
何かを、言おうとする。
けれど。

「もう寝た方がいい」

ハオがぽつりと呟いて。
そのまま――― 一旦身体を離し、改めてを見つめた。

「おやすみ。…

その額にひとつ、まるで啄ばむように軽く、口接けを落として。

「―――っ…」

まるでそれが合図だったかのように。
不意にの身体が崩れ落ちた。
そのままぐったりと完全に力の抜けきった彼女を、ハオがそっと抱え上げる。
そしてくるりと蓮たちのほうを向いた。

ざくざく、と雪を踏む音が響く。

「はい」

ハオの言葉に、蓮は我に返った。

「返してあげる。今はね」
「…ッ」

そう言いながら差し出されたの身体を、蓮はばっと急いで受け取った。
その腕に重みを感じ、やっと現実を意識する。

「大丈夫。もうしばらくすれば熱も引くと思うよ」

ハオの口端がつり上がる。
そこに、先ほどまでの別人のような柔らかさは、どこにもない。
ただのし掛かるように重く、誰もが口を閉ざし圧倒されてしまう威圧感―――それだけがそこにあった。

蓮はひたすらハオを睨みつけた。

それをまた、くすりと笑って。
ハオは葉に視線を移した。

「君にはもっと強くなってもらわなければならないからね。ここで殺したくはないんだ」

そう一方的に告げると、ハオはここから立ち去ろうと、踵を返した。
硬直の解けた臣下たちも、慌ててそれに倣う。

「……に、何をした」

その背中に、同じくやっと硬直から抜け出したリゼルグが、ペンデュラムを向けた。
積年の憎しみに染まった顔で。

「答えろ。―――こっちを向け、ハオ!」

リゼルグの手から、ペンデュラムがハオ目掛けて発射される。
ハオが振り返った。
だけどその口許には笑みを浮かべたまま――
ハオが手をかざすと、ペンデュラムが弾かれ、一陣の突風がリゼルグを襲った。
同時に、再び吹雪に包まれる一帯。

「リゼルグ!」

竜が叫んだ。
その隣を、シャローナとエリー、サリーが嬉々とした足取りで駆け抜ける。

「ま、待ってーハオ様ー!」
「あたし達も、連れてってくださあーい!」

三人は真っ直ぐにハオの元へと向かう。
そして―――
それっきりハオ一派の姿は、吹雪の中に消えていった。










洞窟内は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
焚き火のパチパチとはぜる音が響く。

吹雪すら――自然すらも従わせてしまうハオの力を目の当たりにして、絶望したリゼルグと、それを吐き捨てるように否定するホロホロ。
心配そうにミリーがそれを見ていた。

その横で。
いまだ眠り続けるを、蓮が静かに見守っていた。
荒い呼吸はいつの間にか収まり、今はすうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。
顔の赤みもひいて、触れて確認してみればたしかに熱はひいていた。
ハオの言った通りに。



脳裏に浮かぶのは、彼女の泣き顔。



あの瞬間、まるでが別人のように見えた。
自分の知らない彼女が、そこにいた。
そんな気がした。

――――自負、だろうか。
彼女を拾ったのは自分で。
彼女と暮らしていたのは自分で。
誰よりも彼女と身近にいた――そう、無意識に、思い上がっていただけなのかもしれない。
まるで彼女のことなら、何でも知っていると。
自分が一番知っていると、勘違いしていただけなのかもしれない。

そんなこと、あるわけがなかったのに。

『あいつにとって、お前が全てなんだよ。気付けよこの鈍感野郎…!』

ホロホロに言われた言葉を思い出して。
ふ、と自嘲が込み上げた。
話があると、離れたところに呼び出されて――
そうして真正面から告げられた言葉は、深く深く。
どくん、と。
あの時の痛みは、今でも忘れられない。
忘れ、られない。

まさかが、それほどまでに、自分においていかれたことを強く覚えているなんて。
そして、それほどまでに―――恐れていたなんて。

自分の行動によって
彼女に無理をさせていた。
自分の行動が
そんなにも、影響を与えていた。
重荷を、負わせていた。

気付かなかった。
気付けなかった。

そんな自分が――
彼女を一番に知っているなんて、思う資格などあるだろうか?
思い上がるにも程がある。

(―――否。もしかしたら)

ホロホロにそう告げられたからこそ。
逆にその自負が、顔を覗かせたのだろうか。

「どちらにしろ……俺は、お前を」

守れていないのか―――

苦しい。
己の無力さ。
ホロホロの言葉。
の、想い。
ひとつひとつが、胸を刺す。

自分が守りたいと思ったのは、彼女の、何だったのか。
一体何から、彼女を守りたかったのか。

例えこの先、を迫る危機から守れたのだとしても――

果たして彼女の心を守ることは、出来るのだろうか?

もし彼女の身体は守れたのだとしても、彼女の心を傷つけてしまったなら。
それは、ただの自己満足だ。
そう―――今までと同じ。
ただ身勝手に…
守りたいからと、己が最善だと思った手段を選択して。
結局、結果的に彼女を傷つけて。

つい先日、とようやく視線を合わせた時の、あの思いは何処へ行ったのだろう?



『好きなんだろ? のこと』



          ち が う 。



こんなもの、「好き」とは呼べない。
こんなにも自分本位な感情など。
そんな綺麗な言葉で表してはいけない。



ならば…






俺は―――を好きではない。






そう自覚した途端。
不意に苦い思いがこみ上げた。

ああ、これは何だろう。
俺は―――失望しているのか。
自分に。
この腕はまだ、容易く誰かを守れるほど、強くも大きくもないのだと。

(―――所詮俺如きには、無理だったということか)

あぁ
胸が、くるしい。
ただの自嘲ですら、今のこの心には痛みしか与えない。


今の自分には、君を傷つけることしか、出来ないのか。












□■□












眠りが軽くなった。
ふ、と浮上する意識。

同時に覚醒する、自己。




わたし―――…

―――そう、わたし。




「………」

なんだろう。
今、すごく深い夢をみていた、気がする。
まるで自分が自分じゃないような。

開いた視界に映るのは、ごつごつとした岩の天井。
薄暗い中で、誰かの声が聞こえた。

「…! 起きたんか」
「葉……?」

そう呟きながら、ゆっくりと上半身を起こす。
少し意識がすっきりした。
不意に何かがずり落ちる感覚に目を落とすと、足元には見慣れたコート。
……蓮の、コート?

「これ…」

ふと気付いてみれば、今自分の下に敷いてあるコートやジャケットも。
全部、見覚えのあるもので。
そうこのコートは確か、葉の―――?

「良かった。熱、下がったみたいだな」
「熱?」

言われて、ぼんやりと思い出す記憶。

そうだ、わたし…
朝から何だか寒気が酷くて。
ともすれば縺れてしまいそうな足を、必死で叱咤して。

……急ぐ旅だってこと知ってるから。
自分などの単なる不調で、みんなの手を患わせたくなかったから。

あれ? でも――
何故だろう。
途中から意識が、ない。

そして、今のこの状況。

――――まさか。

「よ、葉っ…わたし、」
「ああ、気にすんな。どうせ吹雪でビバークせにゃならんかったんだ」
「……」

緩く笑う彼の顔を見つめながら。
それでも、どうしようもなく申し訳ない気持ちが込み上げる。
ああ、わたしは―――…

「……葉、ごめんなさい……。あの、コート…ありがとう」

それだけを言うのが精一杯で。
すると葉が、またウェッヘッへと笑ってくれた。

その時。

やっと彼に気付いた。
他の面々が横になって眠っている中。

「―――蓮」

小さく名前を呼ぶ。
すると、金瞳がゆらりと此方を向いた。

「蓮……あ、あの、」

それでもせめて。
せめて一言、謝りたくて。

そして、コートをありがとうって。
言いたかった。
ただそれだけだったのに。

「……!」

目を、逸らされた。
唐突に。
何の前触れもなく。

冷水を浴びせられたような感覚。
洞窟内はこんなにも、暖かいのに。

脳が何かを拒否する。
受け入れがたいもの。
感じたくはないもの。

―――何かが、手からすり抜けていくような、

(何も言えなかった)
(言葉を、のみこんだ)




その様子を、リゼルグが静かに見つめていた。








それは幕開け。
歯車が噛み合わぬまま、軋んだ音をたて。

巡っていく、合図。